G-HAUPによる有機・無機材料のキラル光学的性質及び光学的異方性測定


図1. キラル光学的性質と光学的異方性
 左右円偏光に対する屈折率の差である旋光性や吸収率の差である円二色性といった「キラル光学的性質」(図1) は,それぞれ1811年,1869年にArago,Cottonによって発見された。 しかしながら, 発見以来170年を経ても, 異方性媒質におけるキラル光学的性質の正確な測定はその重要性にも関わらず困難であった。 これは,キラル光学的性質に比べ100-1000倍ほど大きな直線複屈折や直線二色性といった「光学的異方性」により,キラル光学的性質を光学的異方性から分離することができなかったためである。
 1983年,当研究室の前身である本学応物・小林諶三研において,透明な異方性媒質における旋光性と直線複屈折の同時測定が可能な測定原理および「高精度万能旋光計 (High Accuracy Universal Polarimeter:HAUP,ハウプ) 」 と呼ばれる光学測定装置が開発された [1]。 その後,HAUPの測定原理は吸収を持つ異方性媒質にまで拡張され,旋光性や直線複屈折に加え,円二色性及び直線二色性の同時測定も可能となった [2]。 現在では,旋光性,円二色性,直線複屈折,直線二色性の温度依存性に加え,それぞれの波長依存性も全自動測定出来る「一般型HAUP (Generalized-HAUP:G-HAUP) 」 (図2) を構築し,紫外可視領域におけるスペクトル測定が可能となっている [3]。



研究内容



図2. G-HAUPの外観 (上) とその光学系 (下)
銅酸化物高温超伝導体の光学的性質と対称性の破れ
 1986年に高温超伝導が発見されて以来、現在になっても不明である発現機構を解明するため、電荷秩序・磁気秩序を明らかにする必要がある。 また、これらの秩序は空間反転対称性の破れおよび時間反転対称性の破れに密に繋がる。 当研究室では、代表的な銅酸化物高温超伝導体Bi2Sr2CaCu2O8+xのバルク試料を用いて、キラル光学的性質の波長依存性を測定する。この測定から対称性の破れの存否を議論し、電荷秩序・磁気秩序の形成を見出すことを目指す。

HAUPによる光学的物理量の測定と定義の再確認
 固体状態における光学的物理量の定義は、正式にはずっと曖昧なままであった。 そこでMgF2及びカンファースルホン酸ナトリウム塩を用いて円二色性を測定し、物理量を再定義する。 これにより、結晶構造や配向性材料における分子構造に関する知見を明らかにする。

結晶のキラリティと強誘電性の関係
 HAUPを開発した小林諶三研では、強誘電体の研究も盛んであり、強誘電体のキラル光学的性質も測定していた。強誘電体とは、外部電場がない環境下でも分極を発生させる性質を持つ誘電体のことである。 その中でも、キラル結晶でもある硫酸トリグリシン(Triglycine sulfate ; TGS)において、小林らは、TGSの分極が反転するとキラリティも反転することを明らかにした[4]。 当研究室では、微量分子の添加によるTGSの分極とキラリティの関係に着目し、両者の関係を解明することを目指す。



参考文献

[1] J. Kobayashi et al., J. Appl. Cryst., 16, 204 1983.
[2] J. Kobayashi, T. Asahi et al., Phys. Rev. B, 53, 11784, 1996.
[3] M. Tanaka, T. Asahi et al., J. Phys. D: Appl. Phys., 45, 175303, 2012.
[4] J. Kobayashi, et al., J. Appl, Phys., 69, 409-413, 1991.




溶液中・固体中におけるキラルな医薬品分子動態の物理化学的解析

 キラリティを持つ分子は、食品、農薬、医薬品などさまざまな分野で機能性分子として多く用いられている。特に、医薬品におけるキラリティは受容体との結合の特異性を高め、より有用な薬理作用を生み出すために重要である。我々のグループでは、最近再び注目を集めているサリドマイド及びその誘導体に着目している。
 サリドマイドは1957年にドイツで安全な睡眠薬・鎮静薬として開発され、つわりを抑えるために多くの妊婦がサリドマイドを服用したが、やがて手足の発達に異常がある胎児が多く生まれた(アザラシ肢症)。その後、サリドマイドのR体、S体の2つの対掌体(エナンチオマー)のうち、R体には催奇形性は無く、S体のみが催奇形性を引き起こすと報告された。サリドマイドの薬害は、医薬品開発におけるキラリティの識別・分離の重要性を世界に知らしめる大きな契機となった。
 だがさらに研究が進むと、生理条件下でサリドマイドはキラル反転を起こし、R体とS体が相互に変換してラセミ化することが報告された。さらにサリドマイドは様々な代謝を受けることが知られており、特に水の存在下では比較的速やかに加水分解され複数の代謝産物が生成する。このように、キラル反転と様々な代謝が組み合わさって同時に起こることで、サリドマイドの詳細な薬理作用メカニズムの解明は非常に困難なものになっている。
 作用機序についてまだ未解明な部分が多いサリドマイドだが、近年では多発性骨髄腫、ハンセン病、ベーチェット病、AIDSなど多くの難治性疾患に対する治療薬としての有効性が認められるようになってきた。またサリドマイドの薬理活性を高めるために、さまざまな誘導体・類似体の開発も進んでいる。ごく最近ではサリドマイドの受容体タンパク質としてCereblonが同定され、サリドマイドとの共結晶X線構造解析によって受容体との結合様式が明らかにされた。我々は、歴史的な教訓としてだけではなく、未来への可能性を秘めた新しい医薬品としてサリドマイドを研究することに大きな意義があると考えている。


 我々のグループでは、まずキラルなサリドマイド結晶中での分子状態についてX線結晶構造解析と量子化学計算を用いて解析した[1]。その結果、キラルなサリドマイドの結晶構造を初めて明らかにし、結晶中で水素結合によるホモキラルな二量体構造を形成していることを報告した。またその水素結合が持つエネルギーを計算した結果、ラセミ体の結晶構造中にあるヘテロキラルな二量体を形成する水素結合のエネルギーと。ホモキラルな二量体を形成する水素結合のエネルギーの違いによって、ラセミ体とエナンチオマーの物性の差が生まれている可能性を報告した。
右:図2. 結晶構造中のホモキラルなサリドマイド二量体(文献[1]より作成)











 サリドマイドの代謝は非酵素的なキラル反転、加水分解、酵素的な酸化が同時に生じる複雑な現象である。我々は動物由来の肝臓ミクロソーム抽出液を用いて複数の代謝反応が起こる代謝系をin vitroで再構成し、多段階的に生成するサリドマイド及びサリドマイド誘導体の代謝産物とそのキラリティを実験的に定量した[2]。LC-MS/MSを用いて代謝産物の階層的な進行を観測し、各代謝産物がどの程度の加水分解・酸化の反応時間によって生成するか二次元的に可視化した代謝マップを初めて作成した。また各反応時間での試料のCDスペクトルを測定することによって、加水分解・酸化を複数受けた代謝産物では、代謝反応中で優勢なキラリティが長く保持されていることを実験的に明らかにした。
右:図3. 加水分解と酸化を一回ずつ受けたサリドマイド代謝産物のLC-MS/MSによる定量と代謝マップ(文献[2]より作成)






 サリドマイドが示す複雑な代謝系の全体としての振る舞いを定量的に考察するため、キラリティの次元を含めた反応速度論に基づく化学反応ネットワークを構築し、代謝産物の存在量やキラリティの偏りの経時変化を推定した[3]。いくつかの実験的に得られる反応速度パラメータを用いて数値計算を行った結果、代謝の終盤ではおよそ40%ee程度のキラリティの偏りが全体として残存し平衡に至ることが明らかとなった。また複数の反応が関与する場合には、従来のラセミ化速度定数ではなく、新しい定義が必要であることも提案した。
右:図4. キラル反転と代謝の化学反応グラフ(文献[3]より作成)






 当研究室ではさらに、キラル分光学、分析化学、結晶光学、熱分析、量子化学計算、数理モデリングなどを用いて、さまざまな角度からのアプローチでのサリドマイドのユニークな性質の解析を以下のように進めている。

(1) サリドマイドとその誘導体のキラル反転と代謝の関連性の解析
(2) サリドマイドの加水分解産物が示す物理化学的性質の測定
(3) 溶液・固体状態におけるサリドマイドの多量体形成の解析
(4) 固相化学反応によるサリドマイド加水分解の逆反応及び熱ラセミ化の解析

参考文献

[1] Suzuki, T. et al. Phase Transition 2010, 83, 223-234.
[2] Ogino, Y. et al. Chirality 2017, in press.
[3] Ogino, Y. and Asahi, T. J. Theo. Biol. 2015, 373, 117-131.