溶液中・固体中におけるキラルな医薬品分子動態の物理化学的解析

 キラリティを持つ分子は、食品、農薬、医薬品などさまざまな分野で機能性分子として多く用いられている。特に、医薬品におけるキラリティは受容体との結合の特異性を高め、より有用な薬理作用を生み出すために重要である。我々のグループでは、最近再び注目を集めているサリドマイド及びその誘導体に着目している。
 サリドマイドは1957年にドイツで安全な睡眠薬・鎮静薬として開発され、つわりを抑えるために多くの妊婦がサリドマイドを服用したが、やがて手足の発達に異常がある胎児が多く生まれた(アザラシ肢症)。その後、サリドマイドのR体、S体の2つの対掌体(エナンチオマー)のうち、R体には催奇形性は無く、S体のみが催奇形性を引き起こすと報告された。サリドマイドの薬害は、医薬品開発におけるキラリティの識別・分離の重要性を世界に知らしめる大きな契機となった。
 だがさらに研究が進むと、生理条件下でサリドマイドはキラル反転を起こし、R体とS体が相互に変換してラセミ化することが報告された。さらにサリドマイドは様々な代謝を受けることが知られており、特に水の存在下では比較的速やかに加水分解され複数の代謝産物が生成する。このように、キラル反転と様々な代謝が組み合わさって同時に起こることで、サリドマイドの詳細な薬理作用メカニズムの解明は非常に困難なものになっている。
 作用機序についてまだ未解明な部分が多いサリドマイドだが、近年では多発性骨髄腫、ハンセン病、ベーチェット病、AIDSなど多くの難治性疾患に対する治療薬としての有効性が認められるようになってきた。またサリドマイドの薬理活性を高めるために、さまざまな誘導体・類似体の開発も進んでいる。ごく最近ではサリドマイドの受容体タンパク質としてCereblonが同定され、サリドマイドとの共結晶X線構造解析によって受容体との結合様式が明らかにされた。我々は、歴史的な教訓としてだけではなく、未来への可能性を秘めた新しい医薬品としてサリドマイドを研究することに大きな意義があると考えている。


 我々のグループでは、まずキラルなサリドマイド結晶中での分子状態についてX線結晶構造解析と量子化学計算を用いて解析した[1]。その結果、キラルなサリドマイドの結晶構造を初めて明らかにし、結晶中で水素結合によるホモキラルな二量体構造を形成していることを報告した。またその水素結合が持つエネルギーを計算した結果、ラセミ体の結晶構造中にあるヘテロキラルな二量体を形成する水素結合のエネルギーと。ホモキラルな二量体を形成する水素結合のエネルギーの違いによって、ラセミ体とエナンチオマーの物性の差が生まれている可能性を報告した。
右:図2. 結晶構造中のホモキラルなサリドマイド二量体(文献[1]より作成)











 サリドマイドの代謝は非酵素的なキラル反転、加水分解、酵素的な酸化が同時に生じる複雑な現象である。我々は動物由来の肝臓ミクロソーム抽出液を用いて複数の代謝反応が起こる代謝系をin vitroで再構成し、多段階的に生成するサリドマイド及びサリドマイド誘導体の代謝産物とそのキラリティを実験的に定量した[2]。LC-MS/MSを用いて代謝産物の階層的な進行を観測し、各代謝産物がどの程度の加水分解・酸化の反応時間によって生成するか二次元的に可視化した代謝マップを初めて作成した。また各反応時間での試料のCDスペクトルを測定することによって、加水分解・酸化を複数受けた代謝産物では、代謝反応中で優勢なキラリティが長く保持されていることを実験的に明らかにした。
右:図3. 加水分解と酸化を一回ずつ受けたサリドマイド代謝産物のLC-MS/MSによる定量と代謝マップ(文献[2]より作成)






 サリドマイドが示す複雑な代謝系の全体としての振る舞いを定量的に考察するため、キラリティの次元を含めた反応速度論に基づく化学反応ネットワークを構築し、代謝産物の存在量やキラリティの偏りの経時変化を推定した[3]。いくつかの実験的に得られる反応速度パラメータを用いて数値計算を行った結果、代謝の終盤ではおよそ40%ee程度のキラリティの偏りが全体として残存し平衡に至ることが明らかとなった。また複数の反応が関与する場合には、従来のラセミ化速度定数ではなく、新しい定義が必要であることも提案した。
右:図4. キラル反転と代謝の化学反応グラフ(文献[3]より作成)






 当研究室ではさらに、キラル分光学、分析化学、結晶光学、熱分析、量子化学計算、数理モデリングなどを用いて、さまざまな角度からのアプローチでのサリドマイドのユニークな性質の解析を以下のように進めている。

(1) サリドマイドとその誘導体のキラル反転と代謝の関連性の解析
(2) サリドマイドの加水分解産物が示す物理化学的性質の測定
(3) 溶液・固体状態におけるサリドマイドの多量体形成の解析
(4) 固相化学反応によるサリドマイド加水分解の逆反応及び熱ラセミ化の解析

参考文献

[1] Suzuki, T. et al. Phase Transition 2010, 83, 223-234.
[2] Ogino, Y. et al. Chirality 2017, in press.
[3] Ogino, Y. and Asahi, T. J. Theo. Biol. 2015, 373, 117-131.